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2011年 08月 10日
8月10日(水)西淀川区あおぞら財団による、「公害地域の今を伝えるスタディツアー」の人達が池永邸の見学に訪れました。 訪れたのは、財団のスタッフさんと、ツァーに参加されている大学生の方12名で、環境問題などを勉強されている人達のようです。 まず、暑い中での訪問でしたので、春に収穫したお茶を冷やして、皆さんに飲んでもらいました。 私が小学生の頃、西淀川区は公害の町で有名?になり、被害者の方が大規模な公害訴訟をおこされた事で、当時は大きく報道され、公害の町のイメージが定着してしまったようです。 小学生の頃は、光化学スモッグが発生したと連絡があると、校庭に旗がたって、休み時間校庭にでられなくなりました。 野里のあたりは、まだ被害は少なく、43号線周辺の住民は、被害にあった方も少なく無いと思います。 私が大人になる頃には、工場の煙など色々改善されました。 現在では、工場も郊外に移転した所も多く、その後にマンションが立ち並ぶまちとなりつつあります。 現在の緑陰道路は、もともと、中島大水道とよばれ、附近の農民が作った水路で、農業用水として使用されていました。 その土地を所有していた地主は、上流の住民より地代をもらっていたそうです。 この水路が出来たので、大正時代には、多くの工場が建設され、雇用が生まれ多くの人が移り住みました。 私の祖母も細糸紡績という工場に働きにきて、兵庫県の農村から野里へと移り住んみました。 それから、埋め立てられ、現在の緑陰道路が造られました。 私の記憶では、小学生の頃に完成し、中学生の頃真新しい緑陰道路でマラソンをさせられ、こんな道路作ったが為に、マラソンさせられる~!っと、少々恨みがましく思たっりしました。 今となっては、いい散歩道だと、思っています。
by ikawa-re
| 2011-08-10 15:37
| にしよどの歴史
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Comments(4)
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りえ
at 2011-08-11 13:59
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私は43号線の50m圏内で育ちました。もちろん手帳(公害喘息)持ちでした。出身小学校の校歌に「空に沸き立つ雲・煙」と工場の煙突がそびえ、産業が発展していく様が歌われていたのですが、大気汚染・公害病と負のイメージを喚起させるので、現在はその部分の歌詞が変えられています。開校当時には海に伸び行く沿岸埋立地とより高くそびえる煙突群は高度成長の証でもあったのになぁ・・とちょいと寂しくなります。
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ikawa-re at 2011-08-12 15:34
コメントありがとうございます!
そうですね、私達が小学生だった頃は、西淀川区は多くの工場が建ち並ぶまちでしたね。 工場の排水で、どろどろの川になった大野川が埋め立てられて、現在の緑陰道路になったのも、その頃ですね。 今では、出来島小学校周辺もすっかり、住宅街になっていますね。
先日は、お世話になりました。池永さんのお話を伺うと、豊かな野里の暮らし、川とともに育まれた西淀川地域の風景が時空を超えて、浮かび上がってきました。冷たくておいしいお茶もありがとうございました。こちらのブログをたまに拝見していたのですが、ikawaさんが作者だと始めて知った次第です。今後ともよろしくお願いします。
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ikawa-re at 2011-08-17 09:46
コメントありがとうございます!又、ブログを見ていただきありがとうございます。ヒクイナ会の記録用に作ったのですが、更新回数を増やすため、趣味の話題も入れております。
こちらこそ、よろしくお願いします。
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