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2012年 03月 23日
エレベーターの話。
大阪のエレベーターは、右側に乗り急ぐ人の為に左側をあけます。 東京では反対です。 右手で手すりを持った方が安定しそうですが、右手をあけておいた方が安全なのか。 考え方が分かれます。 淀屋橋は、江戸時代の富豪淀屋が造られました。 淀屋はものすごいお金持ちでした。今のお金で何百兆円もの資産があったとか。 初代淀屋常安は、材木商で大阪冬の陣で家康軍の陣地を建てる材木を融通し小屋を建てたそうです。 その縁で家康の時代となった時に各藩余ったお米の取引をするのにルールがなく、ばらばらに行っていたのですが、それをとりまとめさせて欲しい旨淀屋は家康に申し入れそれが聞き届けられ、米相場を取り仕切ることとなります。 その手間賃が莫大なものになったそうです。 しかし、5代目であまりにも莫大な富を得たと云うことで、幕府からお取りつぶしになります。 淀屋は財産を手代達に分散し、大坂から出て行かせます。 ほとぼりが冷めた頃、その者達を集め再興したそうです。 それ以降大坂の商人達は表向きは質素倹約を旨として、すごしたそうです。 淀屋橋からは中央公会堂、図書館、淀屋橋と重要文化財を見渡せる場所です。 その奥には生駒の山並みが見渡せます。太古の時から変わっていません。 ここは上町台地先端に当たる所です。 淀川の体積土砂で埋まっていたこの場所に、堀を造り船を通しました。 これは土佐堀川です。 江戸時代、この大坂の地には3~40万の人が住んでいましたが、武士は2000人位をだったそうです。 まさに商人とやくざの町だったそうです。 相場をとりしきる為にやくざがいたそうです。 このあたりは庶民の町ではなく豪商の蔵屋敷が建ち並ぶセレブのまちでした。 大阪市役所、ここは橋下徹宅です! 中央公会堂 第1次世界大戦で日本は近代化を進め、ヨーロッパなどへ物資を輸出し、好景気に沸きます。それによって株取引で巨額の富を得た岩本栄吉が明治44年1911年に、当時のお金で100万円を大阪市に寄付し、公会堂の建設が始まりました。竣工は大正7年1918年です。 栄吉さんはアメリカに行かれた時、アメリカで成功した人は社会に還元するため慈善事業を行っていることを知り、公会堂の建設を思い立ったそうです。 しかし、栄吉さんは相場の変動により大きな損失を出し、公会堂の完成を見ないまま自宅でピストル自殺されました。 彼以降、そんな人はなかなか出てきません 幸之助さんは梅田の歩道橋を寄付してくださったそうです。 すいしょうばし 大江橋 ヨーロッパの町並みを目指して建築された橋です。 ここは堂島川の船のせき所として造られてそうです。 淀屋橋、大江橋は重要文化財 大江橋は弁護士会館 堂島米相場 元禄10年1697年中之島の米市が堂島に移され以来日本の米相場がここで決定されました。 周辺には各藩の蔵屋敷が建ち並び大坂が日本の経済の中心地として栄えました。 米の先物取引が行われており、それは世界初と云われています。 現にシカゴの商品先物取引所の博物館では、世界初の商品先物取引として紹介されているそうです。 蜆川 明治42年北の大火で周辺が焼けてしまい、そのがれきを川に捨てた。 その後その地は埋め立てられ、蜆川はなくなってしまいました。 それまでは川沿いに店が並び、風情あるたたずまいだったそうです。 新地本通り 四つ橋筋より西側から栄えてきました。当時新町より安くで遊べるところでした。 なので、船場の手代さん達も来れてたようです。 芸がしっかりしていなくても大丈夫で湯女をしていた人が来ていた。 お初天神 お初と徳兵衛4月6日が命日その1ヶ月後には浄瑠璃で、上演されていた。 曾根崎心中は大ヒットした、つぶれかけていた小屋も持ち直したほど。
by ikawa-re
| 2012-03-23 16:55
| 大阪あそ歩
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Comments(2)
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by
りえ
at 2012-03-26 16:34
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エスカレーターから歴史へのお話、大変興味深く面白いですね。
で、エスカレーターのお話なのですが、京都では阪急電鉄は左空けで右側に並びますが、JRは右空けで左側に並びます。JRでも大阪駅は左空けで右側に並ぶはず・・。鉄道での文化の流れを考えさせる出来事です。
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Commented
by
ikawa-re at 2012-03-26 17:15
長々と書いたものを読んで頂きありがとうございます!JRの京都駅はたまに利用しますので、私も前々から京都のエスカレーターについては不思議に思っておりました。文化の違い?なんでしょうか。
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